日本人がノーベル賞を受賞した背景を見ますと、アメリカの大学院、研究所での研究を経て受賞しているケースがほとんどです。
鈴木 章
インディアナ州のパデュー大学のハーバート・ブラウンのもとで有機ホウ素化合物の研究
根岸 英一
フルブライト奨学生としてペンシルベニア大学博士課程へ留学し1963年にPh.D.を取得
山中 伸弥
カリフォルニア大学サンフランシスコ校グラッドストーン研究所へ博士研究員として留学。トーマス・イネラリティ教授の指導の下、iPS細胞研究を始める
小柴 昌俊
1955年6月 - ロチェスター大学でPh.D.を取得し、シカゴ大学研究員に就任
野依 良治
1969年1月、アメリカ合衆国にわたり、ハーバード大学博士研究員としてイライアス・コーリー(1990年ノーベル化学賞受賞)の下、1970年3月まで研究を行った。この時期、後のノーベル化学賞共同受賞者となるバリー・シャープレスとの交流が始まる。
朝永 振一郎
1931年、仁科芳雄の誘いを受け、理化学研究所仁科研究室の研究員に着任。ここでマグネトロンの発振機構の研究等を行う。ドイツのライプツィヒに留学し、ヴェルナー・ハイゼンベルクの研究グループで、原子核物理学や量子場理論を学んだ。また第二次世界大戦中にはマグネトロンや立体回路の研究も行なった。この研究により、1948年に小谷正雄と共に日本学士院賞を受賞している。1941年、東京文理科大学(新制東京教育大学の前身校、現・筑波大学)教授。1949年、東京教育大学教授。プリンストン高等研究所に滞在し、量子多体系の研究を行なう。
江崎 玲於奈
1960年、米国IBM トーマス・J・ワトソン研究所に移籍。磁場と電場の下における新しいタイプの電子-フォノン相互作用や、トンネル分光の研究を行った。更に分子線エピタキシー法を開発し、これを用いて半導体超格子構造をつくることに成功した。1973年には、超伝導体内での同じくトンネル効果について功績のあったアイヴァー・ジェーバーと共にノーベル物理学賞を受賞した。
利根川 進
1968年:カリフォルニア大学サンディエゴ校博士課程修了。Ph.D. in molecular biology
1969年:米ソーク研究所・ダルベッコ研究室でポスト・ドクター研究員
1971年:バーゼル免疫学研究所(スイス)の主任研究員
1981年:マサチューセッツ工科大学生物学部およびがん研究所教授。
1987年:免疫グロブリンの特異な遺伝子構造を解明した功績によりノーベル生理学・医学賞を受賞。
南部 陽一郎
1952年に再び朝永の推薦を受け、木下東一郎とともにプリンストン高等研究所に赴任した。プリンストンでは強い相互作用の飽和性やスピン軌道力の研究を計画していたが、難航した[7]。翌年もプリンストンに籍を置きながら、春から秋にかけては湯川秀樹が残していた資金を元にカリフォルニア工科大学でγ-π productionの研究を行なっている[7]。1954年にゴールドバーガーの誘いを受けてシカゴ大学の核物理研究所に着任。同研究所には小柴昌俊らもいた[7]。シカゴ大ではグリーン関数の表示法を研究したほか、ω中間子の存在を提唱している。
下村 脩
1959年(~1963年)には、長崎大学の助手となる[18]。プリンストン大学の フランク・ジョンソン教授は、下村の論文に感銘を受け、プリンストン大学に招聘1959年(昭和34年)、下村は受諾した。平田はハーバード大学留学体験から博士の学位により報酬が倍増されることを知っていたため、博士課程の学生ではなかった下村に博士号を与えた
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ノーベル賞受賞者とアメリカの関係
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